工場とプロセス

昨日は,「クルマへの愛を確かめよう」という会に参加してきました.とてもおもしろい会で,最後にマツダの藤原さんが,まとめに次のようにおっしゃったのが印象的でした.「高い志と,正しいプロセスが大事である」と.

最初の高い志というのは,私の出身高校の名前でもあり,とても好きなコトバです.さて,正しいプロセスとは何かというのは難しい.藤原さんは,プロセス実行中は,結果を求めず粛々と実行することといった説明をなさっていました.

さて,自動車は工場で作られますが,工場とプロセスというと,Lazzaratoさんの無形労働の議論があります.

今回も,前がない承前です.「無形労働」論文から,私の和訳の一部を持ってきています.


前節までに述べた脱工業化経済(巨大産業と第三次産業を含む)の特徴は,「(適切な)無形」の生産形態によって際立つ.AV製品,広告,ファッション,ソフトウェア,販売地区の管理などを考える.それらは製品と市場或いは消費者との特別な関係によって定義できる.我々は,テイラ主義者のモデルから遠いところにいる.無形労働は,継続的にコミュニケーションの形態と状態を作り,修正する.その後,その形態と状態は,逆に,製品と消費間の関係を調整するインターフェイスとして働く.無形労働は,何よりも先ず,社会的関係を産出する.無形労働は,商品を作るばかりではなく,資本関係を作り出す. もし,今日の生産が,直接的に社会的関係の生産であるならば,無形労働の「原料」は,主体であり,そこに主体が生き再生産する「イデオロギー的」環境でもある.主体の生産は,社会的な制御の道具でのみあることを止め,直接的に生産的なものになる.なぜならば脱工業社会のゴールは,消費者,即ちコミュニケーションする人を「活動的な」ものとして作ることである.無形労働者は,消費者の要求を満たすと同時に,要求を作り出す.無形労働が,主体と経済的価値を生み出すという事実は,いかに資本家の生産が我々の生活に侵入し,経済・権力・知識における全ての対抗者を打ち負かしているかということを示している.社会的なコミュニケーションのプロセス(と主要な内実,主体の生産)は,ここでは直接的に生産的になる.なぜならば,ある意味で,それは生産を「生産する」からである.「社会的」なもの(更にはより社会的なもの,即ち言語・コミュニケーション等)が「経済的に」なるプロセスは,まだ十分に研究されていない.結局次のようになる.先ず,我々は,主体の生産を分析することになじんでいる.それは,次のように定義できる.特に「自己に関係した」構成的な「プロセス」であり,それは,フランス哲学におけるポスト構造主義のある血統を引いたものとして,知識と権力に着目した生産の形態となる.しかし,この分析は決して資本家の自己増殖の形態と十分に交差しない.他方,1980年代において,経済学者と社会学者(及びそれ以前のイタリアのポスト労働者主義(post-workerist)の伝統)のネットワークは,「生産の社会的形態」の広範囲に及ぶ分析を行った.しかし,その分析は,価値増殖の内実としての主体の生産を十分に統合しなかった.ここでは,ポストテイラ主義の生産は,生産的共同の活性化及び商品の「文化的な」内実の生産という両面において,主体を労働に結びつけることで正確に定義する.


藤原さんのコトバは正しいと思います.また,多くの人にとって,とても心地よい.

一方で,Lazzaratoさんの主張は,古い話を繰り返しているようでイメージしづらい.しかし,それは違っている.彼は未来を見ているのではと思います.

(nil)