見えないツール

もとPARCの研究者で若くして亡くなったWeiserさんのことを思い出しました.昔に訳した彼のとてもよい論文(エッセイ)の訳を見直してみました.

ツールを作る人にとっての「やさしい」言葉です.「目立たないとだめだ」(本当はもっと下品な言葉ですが)という文化とは異なった西海岸の良さを感じます.20年前に発表されたもので,Robin Williams の名前に寂しさも感じます.


Marc Weiser,  “The World Is Not A Desktop”, interactions, ACM, pp.7-8, Jan. 1994.

実世界は、机上のようなちっぽけなものではない

将来のコンピュータに於けるメタファとはなんであろうか。知的エージェントだろうか。テレビ(マルチメディア)であろうか。3次元グラフィック(バーチャルリアリティ)であろうか。宇宙大作戦(Star Trek)に出てくるような何処にでもある(ubiquitous)音声コンピュータであろうか。洗練されたGUIデスクトップ環境であろうか。それとも、魔法の様に我々の望みをかなえてくれる機械か。

<このどれでもない>というのが正しい答えである。何故ならば、これら全てのコンセプトは、基本的な1つの欠点を持っている。即ち、コンピュータを”見えるもの”(visible)としているのだ。

良いツールは、”見えない”ものである。”見えない”と云う言葉で、私が意味しようとするのは、ツールが、決して我々の意識を侵すことがないと云うことである。メガネは良いツールである。眼鏡をかける時、世界を見るのであって、メガネを見ているのではない。目の見えない人は、地面を杖でたたくことで、通りの様子を知る。杖がどうかを知るのではない。もちろん、ツールそれ自身は”見えない”ものではない。しかし、利用と云うコンテキストに於ては、”見えない”ものである。充分に訓練を積むことによって、我々は、多くの明かに困難なことを消すことができる。私の指は,vi のコマンドを知っている。私の意識からは長く忘れ去られたコマンドをである.良いツールは、”見えなさ”を向上させる。

“見えないこと”の価値は、一般的に理解されていると思う。残念なことに、コンピュータとの相互作用に関する我々の共通のメタファは、”見えない”ツールから離れる方向にある。そして、ツールは、まさに意識されるものとなっている。

マルチメディアを考えよう。そのアイデアは、おおむね、次の様なものである。人々は、家庭でテレビを見るのに、週に何時間も費やしている。それは、テレビが魅力的だからである。それならば、我々はコンピュータインターフェイスを魅力的にしたいのだから、テレビをコンピュータの中に入れてしまおう。しかし、この推論式には、幾つかの間違っている部分がある。我々は、魅力的なことをするのに、多くの時間を費やしているのだろうか(例えば、寝たり、お風呂に入ったり、心配事をしたりはどうか)。何億ドルもかけて撮影所で作られているTV(番組)の魅力を、普通のコンピュータのTVに移し替えるのであろうか。そして、このエッセーでもっとも重要なことだが、コンピュータインタフェースは、結局のところ、魅力的でなければならないのだろうか。魅力は、”見えないこと”の対局にある。

知的エージェントを考える。このアイデアは、おおむね、理想的なコンピュータは人間のようであるべきだ、異なるのは柔順さだけということである。潜在的に心を引き付ける全てのものに対して、一寸、考えて見る必要がある。どうして、コンピュータは人間のようなものでなければならないのであろう。飛行機は、鳥のようでなければならないのか。タイプライタは、ペンのようでなければならないのか。アルファベットは、口のようでなければならないのか。車は馬のようでなければならないのか。人間のやり取りには、トラブル、誤解、曖昧さがなくて、それはコンピュータが目標とすべきものなのだろうか。更に、人間のやりとりは、複数人からなるチームを作る、維持するのに、非常に多くの時間と注意が必要である。それは、2人の場合ですらそうである。私が話しかけたり、指令を与えたり、関係を持つ(親しいと云うには程遠いが)必要があるコンピュータは、非常に多くの注意を払う必要のあるコンピュータである。

魔法について考える。このアイデアは、おおむね、望みをかなえてくれることを目的としている。望みとは、次のようなものである。私は今のままで、もっとお金持ちでありたい。私のボーイフレンドはもっと賢くて、魅了的であって欲しい。コンピュータは、私が興味のある事だけを見せて欲しい。しかし、魔法は、心理学や販売学のようなものである。そして、それは、良い設計や生産技術に対する危険なモデルであると考えている。その証明は、その細部にある。即ち、魔法はそれらを無視するのである。更に、魔法は、自分自身を褒め続ける。丁度、アラジンの中でRobin Williamsの、魅力的な魔神が、大げさな説明するのと同じである。

ヴァーチャルリアリティを考える。そのアイデアは、おおむね、次のようなものである。全身の感覚情報を利用したり、コンピュータとの間で相互作用を行うように移行することで、我々の身体の入出力チャネルの全てを最大限に利用することができるようになり、ユーザインターフェイスの問題を解決することが出来る、と云うものである。人間の”世界-内-存在(being-in-the-world)”に対する「入力」メタファの適切さについては、取り敢えず置いておくとして、VRは、コンピュータを我々の視界から隠して”見えない”ものとするゴールを持っているようである。しかし、我々の現在のユーザインターフェイスに関する問題は、我々が充分なユーザインターフェイスを持っていないと云うことである、と云うのは本当に真実なのだろうか。それは、量の問題、即ち、少ないユーザインターフェイスは良くて、より多くのユーザインターフェイスは、更に良いと云うことなのだろうか。ユーザインターフェイス設計への、この貪欲なアプローチをとることによって、VRは、関心の核にあるインターフェイスを、実世界の背後に追いやり続ける。

音声入力を考える。そのアイデアは、おおむね次のようなものである。もし、コンピュータに対して、ただ話しかけるだけで済むならば、コンピュータは、私を理解しているということであろう。問題は、もし、今日、私が自分のコンピュータに話しかけるとするならば、私は、CやFortranやC++で話さなければならないということにある。私は自分のコンピュータに対して、電子メールを送ることができ、私の云う事を理解した上での(DWIM-Do What I Mean)返事が返ってくるならば、限定されたアプリケーションに於て、私は、音声コンピュータの存在を認めるようになるだろう。限定されたというのは、私の生活時間の多くは、他の人々とともに過ごしており、彼等に話しかけたい、或いは彼らの話を聞きたいと思っているのであって、コンピュータとそうしたいとは、思っていないからである。もし、私が、ノートを取ったり、情報をざっと眺めたい時、私は、静かにやりたい。音声コマンドは、SFの世界で良く知られている。それは、そうすることが目立ち、注意を引くと云う理由によってである。小説は、我々の注意を惹きつけるものである。しかし、良いツールは、そうではない。

私は、エージェントや会話理解等に関する研究を重要であると、考えている。しかし、問題は、それら全て、”意識することが必要な”相互作用の領域にあることだ。その結果として、研究上の議論は、必要以上に狭いものに限定されている。良い、”見えない”ツールに関する幅広い問題は、扱われない。”見えないこと”の技術に対して、我々は、より多くの関心を払うべきだと、私は考えている。その中には、我々が、今日知っているコンピュータを捨てることも含まれる。

“見えないこと”を理解するためには、人文科学や社会科学は、特に有益である。何故ならば、それらは、別の種類の見えないものを明かにすることを専門としているからである。例えば、民俗学は、文脈・環境・文化的な背景の詳細の重要性を示すことができる。また、フェミニスト脱構築主義者は、真の理解に対する異なった深い所に根づいている視点の必要性を教えてくれる。

時計や時計仕掛けの機械は、過去数百年の間、技術の隠喩であった。”見えない”技術は、”見えない”ことの価値を、我々に知らしめるような隠喩を必要とする。私は、その隠喩として幼年時代を提案する。幼年時代は、遊びで一杯で、基礎を形作る時で、常に学び続け、少し不思議で、大人になると急速に忘れてしまうような時代である。コンピュータは、我々の幼年時代のようであるべきだ。即ち、それは、急速に忘れはするが、常に我々と共にあり、我々の生涯を通して努力することなく用いることができる,”見えない”ことの基礎である。

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