いままでいろいろと書いてきましたが,最初は大学の一般教養で授業を受けた 廣松渉 さんに敬意を表する事にします(といってもまったくまじめな学生ではなかった!)
さて,承前と始まりますが,前段がない.ソフトウェアプロセス改善とは,いかなる現象だったかを考えるときに,わずかに参考になるかもしれない.自分用にパラフレーズが必要かもしれない.
ここまでを前段として,余り詳細には踏み込まずに,その前提となるこういった活動に対しての最低限の心構えについて考えてみたい.
私淑する廣松渉氏のテーゼの一つに,四肢的世界観というのがある 1.主体・客体と物事を二分するのは我々の日常生活にとっては都合が良い.私と目の前にあるパソコンとは違うくらいのことはわかっていた方が良いのは明らかである.
しかし,本当にそうか.私は,個々を常に識別しながら活動しているのか? というと少し怪しくなる.もっと積極的にそうではないというのが,四肢的世界観になる.
先ずは,現象の対象的2要因がある.対象というのは,常にはっきりと区別できるものと思いがちであるが,必ずしもそうではない.廣松氏の好きな例は,三角形である 2.我々は,三辺からなる図形を見て,三角形と識別する.この時に,これは(対象は),三角形であるという.しかし,この三角形が,抽象的な(イデアールな)三角形という意味で用いるときもあるし,目の前にあるレアールな三角形の時もある.これは明確に違う.我々はイデアールな三角形を思い浮かべることは出来ない.イメージした瞬間に,それは(正三角形であったり不等辺三角形だったりという)レアールな肉化した個別になってしまう.これが,先ずは対象にある二肢である.
また,主体に関しては,どうか.例えば,子供がウシを見てワンワンといったとする.それが,自分の子供であったならば,間違いであることを注意するに違いない.しかし,どうして注意できるのか.子供がワンワンといった刹那に,自分はその子供にナッテいるのではないか.
もし,素朴な言語モデルを適用するならば,間違った指示がなされているのであるから,交通不能のはずである.しかし,間違いなく分かる.言葉はどうであれ,その時,子供になりきり同じモノを見ているはずである.対象は同一でありながら,主体が切り替わる.ここでもまた,イデアールなお話としての私と,リアルな私という主体の二肢的構造がある.
2+2で四肢的構造であるが,四肢的に分解することが主眼ではない.その分裂を如何に止揚するかが主眼であり,それは関係性であると説明する.私が私の皮膚の表面を越えられないというのは,生物的にはそうだとしても,今キーボードをたたいている私の指を私は意識しない.指の動きを意識しない.この時,計算機は私の一部になっている.現象的には間違いなくそうである.さてそうして,原稿が出来上がるのであるが,これは私にとっては,私と(何人いらっしゃるか分からぬ)あなたとの関係性のなかだけでモノとして存在する.或いは物象化した相として存在する .
こうして,廣松氏は,主体-客体問題を関係(性)というキーワードで止揚する.そうすることで,現象としての四肢が説明できるというわけである.
さて,少し本論に戻る.
ソフトウェアプロセス改善において,先に補助的技術と名づけたものは,対自的活動でしかない.SEPGに示したように,それは開発者の活動であるし,監査でいえば,第一者監査である.先ずこれが譲れない原則である.
そうだとして,次のようによく言われる.
SEPGの活動に対して,現場から「煙たがられ」たり,或いは現場の「単なる開発メンバに組み込まれてしまう」という問題の指摘がある.この現象は,不必要な(そして不自然な交通―コミュニケーションの存在しない)分離「私とあなたは別の人」に依拠している.
共に開発を行うものとして,自分自身に向き合うこと.その視点がなくて,単にチェックする人,チェックされる人になる時,対象を単にイデアールとして見て,自分自身もまたイデアールなものとして見るとき,形式化だけがあり,本来のゴールには近づかない.
即自でありかつ対自でなくてはならない.具体的には,ある形を追うのではなくて,実際のプロセスに対して負荷をかけることなく(あなたがSEPGで私が実開発者だったらそうして欲しい).ただ,ここには,役割分担があり,SEPGは組織としての最適化を求めること.そしてそのことを共有できるように,お互いに自分のこととして捉えられるように,プロセスを見つめなければならない.
(nil)